自殺はダメなわけ
1.あなたを愛するものの愛を裏切るからいけない。
あなたが自殺したら嘆き悲しむ人は誰も本当にいないのですか。ご両親はきっとそうと思いますが、他に例えばおばあちゃんはどうですか。その人に嘆き悲しませないためにも自殺はいけないのです。
2.あなたは一人ぼっちじゃない、だから死ぬことはない。
あなたは孤独に苦しんでいますね。人間らしい愛情と親密さが周りに感じられないのですね。自分のことを誰もわかってくれないと。人は一人で生まれ一人で死ぬ、本質的には孤独な存在です。しかし人は他人との交わりの中で理解され、愛し愛されるときに生命の意味と価値を感じます。あなたには人間不信もあると思います。
人間不信の克服はまず自分を好きになるからです。今までの人生をふりかえってあなたはどう生きてきましたか。あなたの好きなこと、好みの番組、食べ物、自然、周りのもの、分野はどんなものですか。好きな分野へのかかわりを伸ばしていきましょう。
自分らしく生きる道があるなら生きたいあなた。自分の資質に合った事なら熱中できます、それにかけてみましょう。そして難しいことは考えず、周りの人の好意が感じられたら、ありがとうと口に出して言うなり微笑を返しましょう。出来てきたらおはようございますなどの、普通の挨拶を口にしましょう。自然に周りの人に溶け込んで行けると思います。どうしてもいやな人は、その人のことはもうどうでもいいと考えないようにすることです。その人のことで心を乱すのは馬鹿らしいからです。
3.あなたは大切な人、だから死んではいけません。
この世の中にまったくだめな人間は存在しない。あなたは生きる価値がある。そのままで大丈夫なのです。 瀬戸内寂聴さんはこういっています。どんなに小さな草や虫でも、この世にある者はすべてあるべくしてある。あなたとまったく同じ人はいない。あなたの個性は貴重だ。いつか人のために役立つ日が来るし、その中で本当の喜びを感じることが出来ます。と
神は人を大切なものとしてこの世に生を受けさせ、自分に似たものまで成長して生を全うするように望んでいます。神を信頼して、神ならぬ他人の意に無理に合わせようとする必要はありません。
4.今の苦しみから逃れるために死ぬことはない。
今の苦しみは耐えてきたがもう逃れようがない、死ぬしかないとお考えでしょうか。この状況がずっと変わらないとお考えでしょうか。先延ばししているうちに、状況は変わっていきます。予期せぬことも起こったり、考えが変わったりします。今死ぬことはないのです。思いつかなかったやりようも、きっと見えてきます。
苦しさに耐えて生き抜くには、5に述べる生きている意味が見つかるか、自分を無条件に受容してくれる神か他者が必要です。神は自分のようなものでもいつでも大切なものとして受け入れてくださり、何かしようとすれば支えてくれるのです。
今の苦しさは、有用性・便益性・機能的かを第一に評価する現代社会の病根に起因したものともいえませんか。今は無理でしょうが、それから段々に離脱し目覚めていくことも大切です。
5.生きる意味が見つかれば死ぬことはない。
先に3でも述べましたが、人は人間関係の中で生命の意味と価値を感じます。人は誰かのために生きるとき、生きる意味を見出し、自分の生を充実したものに出来ます。ぐっとわがままをこらえて人に喜びを与えて、その人が幸せを感じたと私が知った時、その人以上に幸福になる私がいます。
社会貢献を生きる意味とお考えでしょうか。これまで育ててくれた社会に貢献することは大切ですが、出来ないときはいわゆる仕事はしなくてもいいのです。例えばからだが悪くて仕事できない時は、ありがとうの一言で周りの方を幸せにすると言う大きな仕事が出来ます。
6.あやまちが赦されない・自分が赦さないために死ぬことはない。
人は必ずあやまちをするものです。そのために死を要求されることはありません(残念ながら死刑制度はありますが、これは例外)。罪には回心、悔い改めだけが求められます。他人に対して謝罪は必要ですが、親は態度だけで黙って赦してくれます。神には後悔して悪いことをやめれば、その時点で赦されます。過ちを引きずることはないのです。代わりに周りの人のためになるようなことをしてあげてください。罪より愛が大切です。
7.命を自分勝手にしてはいけない。
あなたの肉体も霊魂もすべて自分の努力で得たものではありません。神の恵みによって預かったものですから自分勝手にしてはいけません。確かに食事や衣服などは直接的には働いて得たもの、心は人生経験で磨いてきたものかもしれませんが、人を人たらしめているものは違うと思います。自分勝手な思いに振り回されるのは、不幸を招きます。わたしのいのちは、神に似たものへの成長の道にあるのです。
8.自殺の是非に関する見解から。
カトリック(キリスト教)では命は神から預かったものだから勝手に自分の自由にしてはいけないとされています。神道でもいのちは人間に「よさされた」(預けられた、ゆだねられた)もので勝手に殺してはならない、預かったものだから命は返さなければならない、返すと共に新しい生命をよさされるとされています。 曹洞宗では第1戒に不殺生戒(殺すなかれ)があり、対象は他人、自分、動物である。原始仏教から考えても殺生は絶対に犯してはならない戒である。 浄土真宗では、戒律が真宗にはないので罪とみなす視点はない。慈しみの教えで間接的に抑止している。 イスラム教では絶対に自殺してはならない、体を傷つけてもいけない。 キリスト教の立場に立たない西洋哲学 ミル:他者の権利を侵害しない限り自殺も許容される。 Wittwer:精神病患者に道徳法則は求められない等で、自殺は常に禁止されているわけではない。 討議倫理学:人間が自殺を図ると共同体の実現も否定されるので自殺は避けるべき。 カトリックの主張の根拠となっているトマス・アクイナスの哲学:自殺は人間の自然本性的な自己保存本能と自己愛に反する。部分は全体に属するという共同体に対する犯罪である。生と死に関する神の絶対主権の侵害である。神だけが生命を終わらせる権利を持つ。
なお近年カトリック教会では、自殺願望は死にたいと思うほどつらい状態にある人の切羽詰った思いと理解し、うつ病などの精神を病んだ方の自殺が多いことへの配慮が必要との見解が一般的となっています。
何か心に響いた点はありましたか。そのことをもう少し考えてみるため、今日自殺することはどうぞ延期してください。